【二〇一五年 杏】
私は何も言えず、ただ黙り込んでいた。
魂の抜けた人形のように、身体から力が抜けていく。そんな私を、奴は用が済んだとばかりにぞんざいに扱った。
勝利を確信したのだろう。
あっさりと解放され、何事もなかったように車から降ろされる。そして、そのまま車は視界から消えていった。
それでも、私はしばらくそこから動けずにいた。 気づけば、道端でぼんやりと突っ立っていて、何度も弟の顔が頭にちらつく。――早く帰らなきゃ。
ようやくその思いが私を動かした。
ゆっくりと歩き出す。
けれど、あの男の声と顔が、頭から離れない。何度も何度も、あの時の会話が、脳内で繰り返される。あの勝ち誇ったような顔。
思い出すだけで吐き気がした。なんであんな奴が……のさばっているの?
なんで、どうして? こんなの、絶対に間違ってる。 世の中、おかしいよ……。ふらふらとした足取りで家路を辿る。
もうすぐ家に着く――新がきっと、心配して待っているはずだ。
そう思ったとき、ある思いが胸を支配する。
でも……どうしよう。
あんなこと、あの子には言えない。 言えるわけがない。あんな残酷な真実。
アパートの前で立ちすくむ。 窓から見える明かりを見上げ、深呼吸した。そして、自分の頬をぴしゃりと叩く。
しっかりしろ!
私が、新を守らないと――。「……よし」
小さくつぶやいて、無理やり口角を引き上げる。
作り笑いだっていい。 つぶれてしまいそうな弱い自分を隠す。そして、私は階段を駆け上がっていった。
「ただいまー!」明るく声を張り上げた。
そんな自分が、ひどく嘘く思える。でも……私は、こうするしかない
【二〇二五年 修司】 杏が走り去ったあとも、俺はただ立ち尽くしていた。 夏独特の、生暖かい風がまとわりついてくる。 じっとりと全身に汗がにじみ、シャツが肌に張りつく感覚がやけに不快だった。 俺は苛立ちから、額の汗を乱暴に拭った。「……なんだよ」 ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。 大きく息を吐きながら、さっき杏が消えていったドアを見つめる。 杏のあの態度……わからない。 十年前。 急に、杏は俺を避けるようになった。 あれは……たしか、寒い日だったと思う。 親父さんの事件で、杏は疲れ切っていて。 だから、俺が傍にいて、支えたいって思ったんだ。 そうして、ずっと一緒に生きていくんだって。 信じてたのに。「なんで、こんな風になったんだ……」 空を仰ぎ、杏のことを思った。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、愛しさが溢れてくる。 愛しくて、狂おしい。 俺の中で、ずっと根を張り、深く……。 十年経った今も、それは変わらず。 出会った、あの時から――一度だって、忘れたことなんてなかった。 【二〇一五年 修司】 あれは、俺がこの街に引っ越してきたばかりの頃だった。 転校初日。 校門の前で、ふと立ち止まった。 大きな木が、空を覆うように枝を広げていて、 何となく気になった俺は、それを見上げていた。 これから、ここで過ごすんだな。 ぼんやりとそう思っていた、その時。 誰かに見られている気配がして、顔を向ける。 そこに、君がいた。 杏が、ほんの少し離れた場所に立っていた。 大きな瞳で、じっと俺を見つめていて。 その視線に、息が詰まった。 可愛い。 そう思った。 今思えば、あれは間違いなく
【二〇二五年 杏】 私は俯き、静かにつぶやいた。「お父さんは……死んだ」「……えっ」 しばらく絶句していた修司が、ようやく声を震わせながら問いかけてくる。「な、なんで?」「心筋梗塞。私が十八のとき」「……そう、だったんだ……」 修司は、何も知らない。 きっと父の死も、今初めて知ったのだろう。 ショックを受けているのが、顔にありありと浮かんでいた。 彼が父の死を知れば、傷つく。 優しい人だから。 そんなこと、わかってた。 そして、真実はもっと残酷で……。 これは絶対に知られてはいけない。 修司のためにも、知らないほうが幸せなのだ。 ああ、何で私は修司と話してしまったのだろう。 なんで、言っちゃったんだろう。 修司があまりに、昔のままで。 つい、気が緩んでしまった。 言うつもり、なかったのに。 やっぱり、修司と話すべきじゃなかった。 苦しい、胸が張り裂けそう。 辛い過去の記憶が、私の心を覆いつくそうとする。「ごめん、私、もう行く」 修司といることに耐えられなくなった私は、立ち上がった。「待って!」 去ろうとした瞬間、修司が咄嗟に私の手を掴んだ。 握られた手が――熱い。 私たちは見つめ合ったまま。 時が止まったかのように、動けなかった。 彼の切なげな瞳から、目が離せない。 修司……本当は、私。 はっとして、思考を現実へと引き戻す。 私はいったい、何を考えて! 目をぎゅっと閉じ、思考を振り払うため頭を強く振った。 そして、修司の手を乱暴に振りほどく。「はな、して!」 その勢いのまま、駆け出そうとした。 だけど、修司の悲痛な声が、私の足を止めた。「杏!! どうし
【二〇二五年 杏】 私がお弁当を持ってきたことを知ると、修司は「二人きりになりたい」と言って、私を屋上へ連れて行った。「お弁当、食べていいよ。時間が無くなっちゃうと困るだろ? 食べながらでいいから、少しだけ俺と話してほしい」 屋上に着くなり、修司はベンチを指差して私を座らせると、その隣に腰を下ろした。 そして、気恥ずかしそうな笑みを向ける。 変わらない……。その優しい微笑み、穏やかな声、澄んだ瞳。 十年前と何も変わっていない修司が、そこにいた。 胸が締めつけられる。 苦しいのに、どこか嬉しかった。「じゃあ、いただきます」 修司の前でお弁当を食べるのは、ちょっと照れくさい。 でも、何かしていないと気まずくて、私は手早く包みを開いた。 緊張で、ちゃんと喉を通るのか不安だったけど。「へえ、その弁当……杏が作ったの?」 修司が私のお弁当を覗き込みながら、無邪気に目を輝かせ聞いてきた。 なんてことない一言のはずなのに、私は一瞬、答えに詰まる。「私じゃない……弟だよ」「あ……ごめん」 気まずそうに目をそらす修司に、私もなんだか気まずくなった。 普通なら、私が作った、と思うよね。 ちょっとへこむなあ。 女らしくないって思われたかな――って、いや、何を気にしてるんだ、私。 別に、修司にどう思われても関係ないのに! むしゃくしゃする気持ちを隠すように、お弁当をかきこむ。 そんな私の横顔を、修司はじっと見つめていた。 なに? なんで、そんな見つめるの? は、恥ずかしいよ~。「あのさ……そんなに見つめないでくれる? 恥ずかしいんだけど」「あ、ごめん! そうだよなっ」 修司はあわてたように笑って、視線を空に向け
【二〇二五年 杏】 仕事に集中したいのに……と私は頭を抱える。「佐原さん、聞いてますか?」「は、はい!」 先ほどから声をかけられていたのか、私がぼーっとしていたのかはわからない。 私が顔を上げると、鬼のような形相の先輩が目の前に立っていた。 女性社員から一番恐れられている、あの厳しい先輩だ。「さっきから、これ、お願いって言ってるんだけど」 ドサッ、と大量の資料が私の机に置かれた。 先輩は少し乱れた髪を手で押さえながら、大きなため息をつく。 私は目の前の資料を指差しながら、おそるおそる尋ねた。「……あの、これは」「だから! 明日までに資料、まとめといてって何度言えばいいわけ? 佐原さん、しっかりしてよね!」 目を吊り上げ、少しずれた眼鏡をくいっと押し上げながら睨んでくる先輩。 ふんっと鼻息を荒くし、私の顔にまで届きそうな勢いだ。 私が小さく頷くと、先輩は大仰に背を向け、ぷりぷりと怒ったまま立ち去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、私は大きなため息を吐いた。 駄目だな……修司に会っただけで、これだ。 意識しないでおこうと思えば思うほど、彼の存在は私の中で大きくなっていく。 どうしてこうなるんだろう。 私は視線を廊下に面したガラス窓へと向けた。 その向こうでは、先ほどから何度も警察の人たちが行き来しているのが目に入ってくる。 それが私の気力と神経をどんどん奪い取っていく。 通り過ぎるたびに、勝手に探してしまう。 またひとり、刑事らしき人物が歩いていく。 先ほども見たダークグレーの背広。 ……修司だ。 私の胸が、また激しく脈打つ。 本当に……正直だな。 我ながら、あきれる。
【二〇二五年 杏】 ……こういう予感は、当たるんだよね。 私は自分の運の悪さを、心の底から恨めしく思った。 瞳に映るのは――修司の横顔。 私の隣には彼がいる。 なんで、こんな状況になってしまったんだろう。 朝、会社に着いてすぐ、私は急いでエレベーターへ駆け込んだ。 別に、修司が会社にいるって確証があったわけじゃない。 でも、万が一ってことがある。 それに備えたかった。ただそれだけ。 できるだけ早く、自分の部署へたどり着きたかった。 よし、ここまではなんとかスムーズにこれたな……とほっとしたのも束の間。 エレベーターの扉が閉まりかけた、その瞬間。 誰かが滑り込んできた。 その姿を見た途端、息が止まる。 ――修司だ。 私が彼を見間違うはずがない。 ずっと、ずっと、忘れたくても忘れられない人。 愛しくて……苦しい。 ああ、もう……どうして、こうタイミングよく現れるかな。 思わず睨んでしまった私に、修司が気づく。 目が合った。 心臓が跳ねる。 それを必死に隠しながら、私はぺこりと会釈だけする。 修司も、驚いたように目を見開き、それから軽く会釈を返した。 エレベーターの中、すぐ隣には修司。 肩が触れそうなくらい、近い。 ドキドキドキ……。 心臓がうるさく鳴ってしまう。 意識しちゃ、だめ! 私は思考を修司からそらすため、エレベーターのボタンに集中する。 修司は何階で降りるのだろう。 さきほど彼はボタンを押さなかったってことは、今光っているボタンの中に正解はあるはず。 ボタンは三と六だけが光っている。
【二〇二五年 杏】 翌朝、耳に心地よい音が届いた。 ――トントントン。 リズムよく響く包丁の音。台所の方から聞こえてくる。 ああ、もう朝なんだな……と、ぼんやり思いながら体を起こした。 気づけば、ちゃんとベッドで眠っていたことに驚く。昨夜は泣き疲れて、そのまま眠ってしまったはずなのに。 またやらかした。 きっと、新がベッドまで運んでくれたに違いない。 よくあること。というと、なんだか情けないけど。 ほんと、どっちが年上なんだかわからない。 弟の新は、私よりよっぽどしっかりしている。 姉の私でさえ、彼のだらしない姿を見たことがなかった。 彼の強さは、歩んできた人生の中で育まれたものなのかもしれない。 母を早くに亡くし、父の事件に巻き込まれ…… 幼い頃から、理不尽な運命を背負って生きるしかなかった。 だから、新はあんなにも強いのだろうか……。 それとも、初めからそういう子だったのか。 でも、どちらにせよ、本当に立派に育ったと思う。 私はというと。 あんなにしっかりした弟を持っていながら、こんなにも頼りない姉で申し訳ない。 ……だからこそ、余計に心配になる。 新は我慢し過ぎてはいないかと。 無理をしていないかと。「姉さん、起きた?」 コンコンと軽くノックされたあと、ドアが開いて、エプロン姿の新が顔を覗かせる。「起きたよ。おはよう……」 姿を見て、どこかほっとする。 でも、昨日のことを思い出すと、少し照れくさかった。「昨日はごめんね。それと……ありがとう。すぐ支度するね」 私が笑いかけると、新も少し照れたように、でもいつもの笑顔で微笑み返してくれた。